由良紀伊守と松阪陸奥守

徳富蘇峰の近世国民史に、とっても興味深いくだりがあります。 近世日本国民史. 第38 朝幕交渉篇 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223966 コマ番号でいうと、20ページ目になるのですが、孝明天皇の幼少時について、東久世通禧が語ってます。東久世通禧は年齢が近いからという理由で、当時東宮だった孝明天皇の遊び相手に選ばれて、たびたび御所にのぼって花御殿で東宮と遊んでいました。当時煕宮という名の東宮は十二歳、保丸と呼ばれていた遊び相手の少年は十歳です。東久世通禧は長じて、三条実美らとともに長州系公家として大和行幸の計画に加わって、七卿落ちします。

欣子内親王は、後桃園帝の皇女で、光格天皇の御后である。後桃園天皇には、皇子がなく、其御皇女に、光格天皇を御姿せ、両方とも皇統であるが、光格天皇は御養子ゆえ、余程御尊敬にもなった。

光格天皇のお后、孝明天皇の祖母。このときすでに光格天皇は崩御していたので、新清和院と呼ばれていました。血統としては新清和院が天皇の娘、内親王で、光格天皇は閑院宮家出身です。

其御方が謎が御好きで、或る時「とくは蟹御万歳」とか云謎が、東宮の方へ来た。夫を孝明天皇が、「徳若万歳」と御解になって、皇太后へ御返答ありし処、御感服になって、人形を進ぜられた。其の人形は、唐子の人形にて、それが五十人あって、大将が二人あって、笹を持っている。余は坐ったり、足を出したりしている。五十人列べて、両方に大将が笹を持ている。

新清和院はなぞなぞが好きで、あるとき東宮になぞなぞを出したところ、すらっと解いたので、ご褒美に唐子人形を五十人、東宮に贈ったということです。その人形には大将が二人いて、その大将は笹を持っている。ちなみにこのなぞなぞは問題が「とくは蟹御万歳」で、回答は「徳若に御万歳」です。「徳若に御万歳」というのは長寿を願うお祝いの言葉だそうです。で、何が興味深いかというと

東宮には、大変其の人形を御愛しになって、其笹を持ている大将をば一人を由良紀伊守と名け、一人をば松阪陸奥守と名け、毎日に当番を致させ、由良紀伊守の時は、馬に乗るとか御馳走が出るとか、色々慰がごさりました。

これ!ここ!孝明天皇は、周囲が「えっ、それはちょっと」と思うほど二人の武家を信頼して愛したのですが、一人は第十四代将軍家茂です。加茂行幸のときは家茂をそばに呼び寄せて自分の御膳からおかずを分けてあげたり、御所に参内してきたときは御学問所で仲良くお酒を飲んで夜明けほどまで放さず、そのあまりの寵愛ぶりにほかの反幕府の公家や過激浪士が嫉妬してなんかするんじゃないかと心配して、会津藩士たちが二条城までの道を厳重に警護したという。そして容保は、特に元治元年禁門の変の前の土足参内(元治元年六月二十七日 – 容保、駕籠のまま武家玄関から参内する)のときなどは、あまりの特別待遇に容保はめちゃくちゃ批判されて、見かねた一条実良が「帝の容保への、道を外れた愛憐の情は、容保にとってもよくない」と危惧したという、この二人です。 東宮はこの人形たちをとっても愛して、大将のうち一人は由良紀伊守、もう一人を松阪陸奥守と名付けました。家茂は、紀州徳川家出身です。由良は紀州の地名で、まさに紀州の大名のこと。松阪陸奥守は、みちのく(陸奥)の大名です。なんだかこの大将の名前は、紀伊徳川出身の徳川家茂と陸奥の藩主、松平容保との出会いを暗示してるみたいで「うわー!」って感動しました。そしてさらに

而して東久世伯は、此れに就て、更らに左の解説を下している。 其の人形を大納言とか、宰相とか御名けなさりそうなものと思う。所が由良紀伊守とか、松阪陸奥守とか、大名の名をつけ給うたのは、大名の御指揮をなさるる御思召であった乎。それとも御遊戯の処で、天下の政冶を執らるる御思召からではなかろうか、後にそういうことになったは不思議と思う。自然其処に、何等かの意味が含蓄して居らぬかと、今日思うことである。何はともあれ小さい人形をば、大名の名をもって御呼になるとは、余程変ったことと思う。

東久世通禧は、普通なら御所で、京都の公家社会に産まれて暮らしてるのだから、大納言とか宰相とかつけるのが普通なのに、大名の名前をつけた、それがとっても不思議だと言ってます。指揮って言っても孝明天皇は幕府を倒して王政復古はのぞんでいないです。やっぱり、出会いを暗示してるように思えちゃって、すっごい感動しました!

孝明天皇が愛したこの人形たちは、おそらく嘉永にあったけむし焼けで焼けてしまったんじゃないかなあと思うのですが、もしかしたらって思うのは、京都に人形寺というお寺があります。本当の名前は宝鏡寺で、百々の御所という名もある。代々皇女が門跡をつとめたこのお寺は、娘のために天皇からよく人形の贈りものがあって人形がたくさんいるから人形寺なのですが、後西天皇の時代、その第十一皇女、理豊女王(本覚院宮)がお寺に入りました。本覚院宮は万勢伊さんという人形をとても大切にしていたそうです。本覚院宮がとても愛したので、いつしか万勢伊さんに魂が宿って夜回りなどしてお仕えしたという言い伝えがあるのですが、宝鏡寺に孝明天皇の妹、和宮がよく遊びに行って毬つきやお人形遊びをしていたそうです。また、嘉永の火事の時は御所が再建するまでしばらく住んでいたということです。もしかして、火事の前に孝明天皇がお人形をお寺に奉納してたら?そしてその人形に魂が宿って‥‥と、想像したくなりました。

関白について

関白について、自分用メモ

・江戸時代の関白の仕事は、幕府と朝廷のパイプ役。
・でも幕府がバックについてるので、幕府側の意見になりやすい。
・それに幕府がバックについてるので、帝もおいそれと反抗しづらい。
・関白には内覧という特権があって、帝に提出する書類を帝より先に見ることができるため、御所内の政治的な動きは全部把握できる。
・毎日参内するので、他のあんまり参内しない公卿たちよりさらに御所のことを把握できる。
・自分主催で会議をひらいて、結果が出たら武家伝奏→所司代→老中というルートで幕府に知らせる。
つまり帝お一人だけの意志で幕府になんか言うことはできなくても関白ならその気になればできる。

■鷹司政通 1823 – 1856
正室は徳川治紀の娘の清子なので斉昭の義兄弟。
関白辞任後も内覧の特権を持ち続ける。孝明帝のお父さんの代からの関白だから孝明帝も逆らいづらい。
でも権力にしがみついてたのではなく、何度も隠居するって言ったのに、意見対立があっても孝明帝はずっと信頼してて引き留め続けていた。
早いうちから幕府側(開国推進)で迷信とか信じなくて合理的。
二条斉敬をかっていたが、跡取りでもないのでやむをえず近衛を推した。(九条がイヤだから)
孝明帝へは水戸斉昭が書いた「ペリーは大根を二つに折って泥がついたまま生でかじる」「ハリスはきもい」という攘夷的な手紙を見せていたので、そのせいで孝明帝が攘夷になったと誤解されたけど、オランダとかの様子をきちんと説明してる書類も見せたりしてるので、孝明帝が自分の考えでいろいろ外国のことを判断できるようにしてあげてたらしい。

■九条尚忠 1856.9.06 – 1862.07.19
正室は唐橋在熙(公卿)の娘。
関白にするのをみんなが躊躇うほど女癖が悪い。
言動が意味不明のことがありみんなが心配する。
「押しが弱くて物事をきちんとさばけない」
「時々わけの分からないことを言う」というのが朝廷での評判。
もともと鷹司と対立気味になってるところに井伊が「将軍は、紀伊がいいね?」と言ってきてその気になり鷹司と決定的に対立する。
それでも孝明帝と鷹司が条約勅許でもめた時は黙って見ていた。(こわいから)
鷹司が辞めた後は関白として幕府と朝廷のパイプ役になった為開国に傾き和宮降嫁を推進し尊攘派から狙われて辞職。
二条治孝の子で九条に養子に行った。二条斉信とは異腹兄弟。二条斉敬は血筋的には甥。

■近衛忠熙 1862.06.23 – 1863.01.23
正室は島津興子。篤姫の養父。薩摩と仲良し。
そのような理由で将軍後継問題では断然一橋推し。安政の大獄で処分される。
「悪い人ではないけど、女よりぐにゃぐにゃしている」というのが朝廷での評判。
「性格が温厚」というのが会津の人の感想。
ぐにゃぐにゃだけど九条が嫌いなので鷹司はこちらを関白にしたがった。
容保が上洛した時の関白で真っ先に会いに行った(当時引きこもり中。だけど容保や家臣に親切にしてくれた)
過激派(たぶん実美)がゴリ押しで長州藩主慶親を文久三年一月十七日参議にしたため、ぐにゃぐにゃなりにもぶちキレて関白辞職。
平安京の陽明門のとこに家があった名残で、近衛家は陽明家と呼ばれる。幕末の書類で時々陽明殿というのが出てくるけど、紫宸殿とか清涼殿みたいに禁裏の殿舎の一つではなくて近衛家の邸のこと。御所南の今出川門のすぐ隣にある。親子して伊達宗城と仲良しだったみたいで、日記にしょっちゅう名前が出てくる。
※参議についてはページ下部補足

■鷹司輔熙 1863.01.23 – 1864.01.31
母が徳川清子(徳川治紀の娘)なので慶喜の従兄弟。政通の子。
8.18ではかやの外に置かれる。
禁門の変では久坂とかが家に入って来て家が焼けたりしたので、長州系みたいなイメージだけど怖かったから何も言えなかった様子。
それでも内通を疑われ立場が悪くなった。
孝明帝は家が焼けて気の毒なので御見舞金をあげた。

■二条斉敬 1864.01.31 – 1867.01.30
二条斉信の子。母が徳川従子(徳川治紀の娘)なので慶喜の従兄弟。
跡を継いでない時期から鷹司政通に「いいね!」と言われていた。
「人望がある」「下の人たちも斉敬のこと誉めている」朝廷での評判。
会津藩の人は「おだやかで心が広い」と言っていた。
慶喜が思わずしどろもどろになるほど強い態度に出ることもある。ガツンと言われると老中も顔が真っ青になる。
鷹司と九条の対立をなんとかするアドバイスを孝明帝に進言した。
容保と仲良しで「両敬」(婚姻関係がある親戚同士みたいに親しいお付き合いをする約束)の約を結んだ。
中川宮とも仲良しでいつもだいたい意見は同じだけど、どっちかというと斉敬のほうが強気。

参議:参議以上または三位以上の者が公卿に列せられる。
徳川幕府政権下では徳川宗家(三卿含む)と御三家は三位以上になれるので公卿になれる。加賀前田も三位になれる家格なので普通に勤めてれば公卿になれる。

だから長州が参議になり公卿に列せられるのは破格中の破格。
公卿になると御所での控えの間も違い服装も違う。

・一橋慶喜は三位中納言なので御所での控えの間は虎之間で、松平容保等の大名はそれより格が落ちる鶴之間。
・公式のお召しで御所参内の時の大名の服装は衣冠なんだけど三位以上と参議は袴(指貫)に模様や色が許される。四位以下は紫の無地のみ。
容保は元治元年に参議にすると言われたけど、藩祖の保科正之より偉くなってしまうのは憚られると思い替わりに藩祖に三位を贈位して下さいと何度も頼んでそうして貰った。孝明帝が崩御された後、朝廷から長年の忠勤を功して参議にするとの報せをもらって、この時は受けた。

御所の表と裏

【御常御殿】
江戸時代のおかみの普段の生活の中心。
書院造の殿舎。外観は蔀戸が残されていて、寝殿造の面影がある。
1 常御所
(上段の間、中段の間、下段の間)
上段の帳台構のうちが剣璽の問
2 褻の御座所
(一の間、二の間、三の間、次の間)
一の間 ここで普段過ごす。約15畳。
ニノ間 平常の御膳はここで召される。(大文字ご覧の御間)
三ノ問は女房の侍すところ。
次の間は命婦以上の女官の控室
3 御小座敷
(上段、下段)
関白対面に使う。
歌道伝授なども行う。和歌奉行とか。
(和歌奉行は冷泉為理と飛鳥井雅典)
4 御寝間
御寝の間は十八畳
5 御清間
御神事のとき使う。潔斎後はこの間で寝る。
6 申ノロ
(申北、申南)
下級女官のいるところ。
板張の広い問
(西側の広縁に面して申ノロと女嬬詰所、男居がある)
7 御献の間
畳が一畳巾に敷かれてある
献上品が並べておかれる
8 御三間
(上段、中段、下段)
諸家奏慶、七夕手向歌の儀などが行われた。
※男子禁制
幕府が定めた禁中法度では基本的に男子禁制。(猪熊事件があったので)
御常御殿で働く男性はじいさんと少年。
「御三間と御献の間の先に御錠口がある。板敷きに畳3枚ぐらい並べてあって屏風でかこってあってそのなかにじいさんがいる。じいさんが鍵を締めて屏風の中で寝ている」
帝は表(小御所とか)へ出るのは自分の気ままというわけにはいかない。(慶喜公伝)
ちゃんとした理由がある関白は入れる。関白はおかみと相談したりする時とか、官位をあげる手続きの時にくる。御小座敷で会う。官位の時は議奏も一緒に来る。
長橋局は奥ではなく口向きにあり役人の出入りがある。
将軍とか将軍のお遣いは長橋局が接待するので長橋局の部屋まで入る。

【口向き】
常御殿の西側のエリア。清所御門の近く。奥と表の中間エリア。
御台所、長橋局、武家玄関、武家休息所、参内殿などがある。
参内殿は大臣や皇族が参内する時に使う部屋。
幕府から派遣された御附武家(御所の内部事務に関わる武士)は口向きに詰めてる。女官はこのあたりは普通に出入りしてる。大御乳人(命婦のナンバー2)とか右京大夫(御服所トップ)も客の接待に来る。御附武家がいる伺候之間は容保も出入りしてる。

【御所で働く女のひとたち】
・典侍
天皇の側に仕える。直接会話ができる。側室候補。
帝の髪を結ったり御食事の介添えをしたりする。男性には顔を見せない。
彼女たちの宿下がりについては大奥よりもずっと気軽で、例えば明治天皇生母の中山慶子(権典侍)は元治元年六月二日、下痢になったけど御所はトイレが遠くて大変だからという理由でその日のうちに実家に帰ってます。
定員七名。
トップは大典侍。
以下は新大典侍、権中納言典侍、宰相典侍、按察使典侍等。
・内侍
天皇の側に仕える。直接会話ができる。
御所の事務をつかさどる。口向きに詰めていて表と奥のパイプ役。
定員四名。
トップは長橋局(勾当内侍/こうとうのないし)。将軍(もしくは将軍のお使い)が来たら自分の執務室に呼んで接待するほどの格式がある。
以下は小式部内侍、中将内侍、右衛門内侍
・命婦
天皇の側に仕えるが、直接返事はできない。もし帝から話しかけられたら典侍か内侍に向かって返事をする。
ただし御差は天皇が夜トイレに行く時のおつきなので、トイレ時は楽しく会話する。
定員七名。
地下の三位や二位の娘がなる。(押小路、壬生、幸徳井等)
トップは伊予。次が大御乳。以下は伊賀とか駿河とかの地名。
嘉永時の御差の駿河は桂宮(敏宮。孝明天皇の姉)の家の諸大夫・生島成房の娘。
※以下はお下さんと呼ばれる
・御末 定員七人。トップは尾張。四位。五位、六位の家の娘。
・女嬬 定員七人。トップは阿茶。四位。五位、六位の家の娘。
・御服所 定員七人。トップ右京大夫。この人は特に表使いをする。無位無官の娘でもオッケー。

【悪女官】
藤宰相という掌侍は孝明帝の意志に反して禁門の変の時に長州方として活動したため、元治元年十月十一日、謹慎を命じられた。しかし藤宰相はいなくなっても、藤宰相が遺した「悪風」は残った。慶応元年七月九日、孝明帝は中川宮に手紙を出して、御所の奥の有様を相談する。
「申ロ方(前述の6申ノロに詰めている下級女官たち)とは、予とは全く合わない。予に従う者は少ない」「藤宰相に仕込まれた者どもなので、女童などの子供といえど決して油断ができない」「奥は天皇派と反天皇派同士の誹謗中傷で溢れている」「特に東宮の周辺の女官は藤宰相の手下が多い。だから東宮とはわが子なのに合わない」「下級女官や三仲間(御末・女嬬・御服所)は節度がないので、東宮とは関わらせたくない」「この現状を捨て置いたらいよいよ何か起きる」「このままでは容易ならざることが起きるかもしれない」(朝彦親王日記)
藤宰相はかつて長橋局として奥を取り締まってた。名前は高野房子。掌侍になる前、孝明帝が東宮時代は東宮中臈だった。王政復古が行われた慶応三年十二月に復帰したので、明らかに倒幕派だった。後に従三位。孝明帝は彼女のことを「姦」という字を使って表現。孝明帝にとって、奥はあまり心休まる場所ではなかったようです。

文久二年十二月二十四日 – 京都守護職、入京

文久二年、十二月二十四日巳上刻、我公京師に着き玉ふ。東山の麓、黒谷金戒光明寺をもって寄宿所とす。町奉行永井主水正、滝川播磨守出て、三条橋東に迎ふ。ただし老中所司代を迎ふるの比例なり。士女拝伏して盛儀を迎く者、路の両頬に羅列し、蹴上より連て絶えず。公には騎らせ玉へ、従者前後に行列を正し、一里あまりに亘る。横山主税跡押しを勤む。小藩侯の如し。昔藩祖土津公、皇国学を信じ殊に王朝を尊崇し玉へ参内傘の形に擬し馬印を造らせ玉ふ。其の志、王朝にあるを示し玉へるなり。今公をもって儀列に備玉ふ。(軮掌録1-343)

十二月二十四日、午前九時頃、京都に入る。黒谷金戒光明寺を宿舎と定める。京都町奉行の永井尚志と滝川具挙が三条橋のところまで迎えに出る。これは老中や所司代を迎えるのと同じ儀礼。士も女が道の両方にふれ伏して盛儀を仰ぐのが、蹴上から約四キロほど絶えることがなかった。わが公は騎馬にて従者を前後に従え、しんがりを勤める横山主税はまるで小藩主のようだった。

昔藩祖土津公が尊王学を信じさらに王朝を尊崇され、参内傘の形の馬印をつくらせ、その心王朝にあるを示した。今わが公はこれの馬印を以て儀列に備える。またその志を継ぐものである。

参内傘公卿などが参内のとき従者に持たせた長柄の傘。保科正之は尊王の志が篤く、朝廷にさまざまな貢じ物をしたり、幕府との間を取りもったりしたので、朝廷から参内傘を下賜された。これ以来会津の馬印は参内傘となった。

文久三年十二月十六日 – 浄華院に引っ越しする

十六日、容保館を施薬院より寺門浄華院に徒す。故事に将軍参内毎に施薬院に過り更衣束帯す。時に将軍上洛近きにあり、施薬院を還さざるを得ずして時情未だ穏やかならず、黒谷の皇居を距る遠く、緩急事にて及ばざるを以て、伝奏衆より旨あり。浄華院に徒る。近傍寺院商家を借りて家臣の寓所とす。(盤錯録-435)

浄華院今は清浄華院と呼ばれていて、場所はそのままです。(京都迎賓館の裏)容保が寝泊まりしていたのは浄華院の敷地にある塔頭の松林院でした。松林院は今はない。

文久三年十二月十三日 – 容保、大さわぎして身支度する

十二月十三日、夕八つ時出門施薬院にて会津侯の許に到らせられ、それより参内ありて、夜九つ半時、帰館せらる。この日宮中において長藩井原主計より差しだしたる書面を下附せられ、意見を尋ね下されしか、参内諸侯方には該書面御収受の上は井原には帰国すべき旨、命ぜられてしかるべきかと内決せられど、なおまた来る十六日に参内上答すべしと御沙汰ありしゆえに上答には及ばれず退朝せられたり。(続再夢紀事-280)

十二月十三日、八時宮より下総橋越より使者参後刻趣によ参内被仰出可申故、施薬院へ集まり居候様との事。即刻共揃申付候事、八半時着、衣冠出門。
七半時過只今一同可致参内肥後守方へ伝奏衆より被仰越候事同人俄かに身仕舞大さわぎ候之六過参内如例。
天機奉伺候末、小御所御廊下にて宮二近御父子徳御逢庵原主計を以長より差出候書付為御見所存御尋に付、明日外之者共申合度旨、一橋より申上御承知にて談合済候はば、十六日午後参内にて可申上入組候事に候はば十五日宮へ出可申上との御返事之。(伊達宗城日記-271)

【経緯】
長州藩は、家老井原主計を上洛させて、入京しての嘆願の機会を請願させていました。これはその三回目です。

【状況】
十三日、小御所で会議が開かれました。議題は長州家老、井原主計による請願(三回目)について、入京を許して請願させるかどうかです。

メンバーは慶喜、容保、春嶽、宗城。中川宮、二条斉敬、近衛前関白親子、徳大寺公純。

中川宮が慶喜、春嶽に施薬院の容保のもとへ集まるようにしらせ、慶喜と春嶽が宗城に知らせたようです。
おそらくなのですが、この種の御所の会議となると大名には武家伝奏から召集をかけないといけないのですが、四人のところにまわるのは大変だし時間も遅くなるので、合理主義の中川宮が、ほかの三人に御所に一番近い容保の施薬院に会議一時間前に集合するように伝え、四人揃ったところに武家伝奏を派遣し、そこから容保が身支度をして参内すればいい(宗城の記録を見ると、参内の支度は一時間あれば十分のようです)と考えたのではないかと思います。

が、のんびりしていたところに突然衣冠姿の三人が現れ「御所に参内して会議するから」と言われ「えっ‥‥?」とびっくりしてる最中にまた武家伝奏も来て「参内せよ」とか御沙汰を伝えてきて、自分は平服のままなので、一時間後って言ってるのになんか容保はわあああー?!となって大さわぎして身支度しました。

春嶽の話によると「書面を受け取るけど、井原は帰国させろ」と決したけど、十六日に改めて奏上することになった。
宗城によると、一橋慶喜が「他の諸侯にも聞いてみたいので十六日に参内して改めて奏上することにしたい」ということで、少し違いますが、結局のところ本決定は十六日に延期ということです。

文久三年十二月十一日 – 長州嘆願入京是非の会議

十一日、長州藩家老井原主計、伏見に到り、書を朝廷に上りて、入京哀願せん事を請願しけり。朝議或いはその請願を容れて、入京を許さんとの事なりしかば、肥後守容保が曰く「今日決して入京を許さざるべきの時にあらず」と、朝廷また島津大隅守久光にられしに、大隅守が曰く「不可なり」。松平春嶽、伊達伊予守もまた曰く「不可なり」と。朝議遂に入京を許さざるに定まりければ、勧修寺経理に命じて、其朝令を主計に伝えしめられけり。(七年史6-76)

文久二年十二月九日 – 江戸を出発する

十二月九日、容保もまた途に上り、二十四日、京都に入る。(会津史下巻-36)

九日、肥後守容保は和田倉を発して上京の途につかれけり。(七年史2-83)

【状況】
勅使を迎えるために出発を引きのばしていましたが、勅使が七日に帰ったのを受けて九日、江戸を出発しました。

【感想】
何で見たのか忘れたのですが、確か会津藩士の誰かが「これからは船の時代だから、せっかくだから船で行きましょう」と言いだして、早速幕府から船を借りたところ、会津は海がないので藩士の誰も船が分からないことに気づいて船を返した、というのを読んだのですが何で読んだのか‥‥。

文久三年十二月五日 – 中川宮の呪いについて

十二月五日
一橋殿宇和島殿及び公、同道にて一橋殿の旅館に集合せらる。会津侯にも会せられたり。此日、種々の御相談ありし内、近来皇上と尹宮との御間を離間せんとするものありて、巳に此程宮には二千石の御家領を幕府より進せられしに御心を迷はされ関東に荷担せらるるなり。又宮には呪詛鴆毒等の密計ある等あらぬ事共を書き綴りて北野辺に貼り置けるよし。(続再夢紀事7-271)

【経緯】
この日、明け方に慶喜から春嶽に連絡があり「朝八時から中川宮のところで会議をするから来て下さい」ということで、伊達宗城もまた偶然宮のところへ来ていたので、皆でいろいろと話しあい、十三時頃に退出しました。そのまま三人で慶喜が宿舎としている東本願寺に集まって、容保も呼んで打ち合わせをします。議題は、中川宮がおかみを呪っているという噂についてです。

【状況】
「中川宮は幕府から二千石の加増を貰うかわりに幕府側についた」「孝明天皇を呪っている」「毒を盛って殺そうと企んでいる」という噂が広がり、北野のあたりに張り紙があったということです。

それを十二月三日近衛前関白がおかみに見せたところ、おかみは大変悩んで中川宮を呼び、宮は「ありえないことです。しかしこういう噂が出るのは私の不徳ゆえ」と言って恐れ入ったということです。孝明天皇はもとより宮を疑う気持ちは持っていないので、変わらず忠勤してほしいと言葉を下し、翌日四日には中川宮を信頼しているので忠勤してほしいという宸翰をくだしました。

とはいえまだ中川宮の足を引っ張る暴論の公卿はいる。

そこで慶喜、春嶽、宗城、容保たちはこの際、在京の諸侯が連署して、断然宮の疑いを晴らす上表を提出してはどうかという話になりました。

鴆毒空想の鴆という鳥の羽にあるという毒のこと。転じて猛毒のこと。

文久三年十二月四日 – 中川宮は容保と義兄弟だから天誅という張り紙

二月四日夜、尹宮の門に貼紙あり。
「会津と兄弟を約し直を惜きを挙るにより天誅に行うべし」(盤錯録-434)

四日夜、尹宮殿へ張紙を為す者あり。其書に曰く
「尹宮、松平肥後守と兄弟の契を結び、鷹司関白の正義を退け、近衛父子、二条右大臣、徳大寺内大臣の姦悪を挙用候に付、依て可行天誅者也。(七年史6-70)